日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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5月23日の週報コラム「ひだり手」

「キリストの痛む体」

行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう》(使徒言行録9章15~16節)。
《多くの中で、弱く見える体の部分が存在することが、かえって必要なのです。そして、価値がないように見える部分に、わたしたちはより多くの価値を置くし、わたしたちの中の不格好な部分は、実はより良い姿をしているのです》(コリントの信徒への手紙一12章23節・私訳)

★キリスト教徒を迫害する者であったパウロは、一転、後半生をキリスト教の伝道に費やしますが、その半生は成功よりもむしろ挫折と失敗が基調の半生でした。
★しかしそんな紆余曲折を経たパウロの歩みだったからこそ、彼はキリスト教の大切な本質を見いだすことができたのではないかと思うのです。それは、共に苦しむことの意味です。
★しばしばパウロは、町から、教会から、追放される憂き目に遭いました。、無様に伝道に失敗して立ちつくす敗れを負った時、自らの傍に十字架の上の敗れ果てたイエスの姿を見いだしたのでしょう。そういう経験の中から語り起こされた、「教会はキリストの体」という言葉です。それは、価値のないもののように十字架に釘付けにされ、不格好にうち捨てられる痛みを背負った体に他なりません。
★「教会はキリストの体」と言う時、その体とは、傷つき痛む体に他なりません。でもその、傷つき痛む部分が是非とも必要なのだ、その傷つき痛む部分の痛みを、他の部分が共に感じ受け、共に分かち合う時にこそ初めて、体は命を持って生きる一つの体となるのですから。
by oji-church | 2010-05-28 12:20 | 牧師からのメッセ-ジ