日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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2月7日の週報コラム「ひだり手」

「生きるとは、借りをチャラにしてもらうこと」

《われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ》(「主の祈り」より)
★主の祈りのこの言葉について、ある人から「わたしはなかなか人の罪を赦すことができません。そうすると、わたしは神様から赦してもらえないのでしょうか。反対に、わたしも神様に罪を赦していただきましたから、わたしも人の罪を赦すことができますように、という祈りなら、分かるような気がするのですが……」という質問を受けて、考え込んでしまったことがありました。
★「罪」と訳されている言葉はマタイ6章では「負い目」と訳され、負債、借金のこと。イエス様はここであえて借金を表す言葉を選んで祈っているのです。
★当時、イエス様の周りにいた農民は重い税金にさいなまれていました。干ばつに見舞われて年貢や税金を納めることができなければ、年貢はそのまま負債となり、返済できなければ土地を取りあげられ、小作人として奴隷のようにこき使われる境遇に陥り、やがてはボロ雑巾のように捨て去られて行くのです。一方で大土地所有者は、小作人から搾取して得た富を蓄えていたのです。人の働きで富を蓄えながら、農民や小作人に対しては苛烈な取り立てをする金持ちがいる、そういう不公平な経済の在り方に対してイエスは、神様にゆるされた人間らしい生き方を望むのなら、まず農民や小作人に課した借金を無しにしたらどうだ、と批判しているのではないか。
★イエス様は抽象的な「罪」のことではなく、借金にあえぐ農民や小作人の人々の具体的な願いを、祈っているのです。イエス様は、「罪」とは、わたしたち人間の神様に対する「借り」と考えていたのかもしれません。生きているというそのこと自体、「借り」をチャラにしてもらっている姿なのだと。
by oji-church | 2010-02-10 12:36 | 牧師からのメッセ-ジ