10月25日の週報コラム「ひだり手」
《ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。》 (マルコによる福音書14章70~72節)
★この場面をゆっくり読み直してみてあることに気づきました。「お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」とは、おそらくはペトロの言葉がガリラヤ訛(なま)りだったからでしょう。顔では見分けはつかなかったでしょうから。
★対してペトロは「呪いの言葉さえ口にしながら、…誓い始めた」と言います。原文では「呪い始め、…と誓い始めた」という具合に「始める」が「呪い」と「誓い」に掛かっていて、ペトロがますます口数多くイエスを否定し始めたことが伺われます。もし訛りによって身元がバレそうだったのなら、しゃべればしゃべるほど正体はバレてしまいます。口数多くイエスを否定し始めたペトロは、もうすでに周囲の人にあからさまに身元はバレていたということになります。
★しかしペトロは逮捕されません。周囲の人(大祭司の部下)にとってペトロは逮捕するまでもない「こもの」だったということでしょうか。この時ペトロは、かつて「たとえ一緒に死なねばならなくなってもあなたを知らないなどとは言わない」と言った自分が、一方ではその言葉を裏切って「イエスを知らない」と言ってしまい、他方では自分が実は、身元が知られても逮捕さえされない「卑小」な人間であったという、二つの面で、自分の「惨めさ」を暴き出されてしまっているのです。それゆえペトロは「いきなり泣き出した」のでしょう。
★しかしガリラヤ訛り丸出しに、裸にされたこの「卑小」なペトロに向けて、ガリラヤでの再会が約束されている(マルコ14:28)ところに、「福音」の深い意味が隠されているのではないでしょうか。