日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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10月18日の週報コラム「ひだり手」

「まさか、わたしのことでは」

《一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」 》 (マルコによる福音書14章18~21節)

★「生まれなかったほうがよかった」とは、その人が生きて存在してきた事実の否定です。マタイ福音書では、この言葉通りユダは自殺してしまいます。使徒言行録には、「ユダは不正をはたらいて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました」ともあります。
★ユダは地獄に堕ちる者として語られます。イエスを売り渡したことへの復讐です。しかしイエスの十字架の苦難は、復讐をもたらすためのものでしょうか。わたしたちは、復讐の思いから戦争が引き起こされ、無数の罪無き人の命が奪われ、さらに復讐が復讐を呼び起こす果てしない暴力の連鎖を目の当たりにしました。
★この場面のユダ以外の弟子たちの様子は忘れられがちです。ダヴィンチの『最後の晩餐』の中でユダの姿はどちらかと言えば控えめで、むしろ他の弟子たちの大げさな身振りが目に付きます。「心を痛めて」とは「苦しい」という言葉で、むしろ「苦し紛れに」と訳した方がいいと思います。弟子たちは苦し紛れに「まさか、わたしのことでは」と、自分たちは関係がないことを訴えたのです。この世のマイナスの有様を遠ざけ、自分は無関係としようとしています。「わたしは悪くない」。しかしただ一人この場面で「まさか、わたしのことでは」と訴えなかった弟子がいます。それがユダです。
by oji-church | 2009-10-21 10:14 | 牧師からのメッセ-ジ