10月4日の週報コラム「ひだり手」
《(1節)兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。(2節)なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。(3節)そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした》(Ⅰコリント2章1~3節)。
★3節のところ「わたしは衰弱していて…」と訳されていますが、実は原文では「わたしも」となっています。1節にも「わたしも」とあります。パウロが2度「わたしも」と語る間に2節があって、そこには「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」との言葉があります。
★パウロはコリントの教会に訪れる前、アテネの町で伝道に失敗していることが使徒言行録には書かれています。アテネでの伝道の失敗に意気消沈して、ボロボロの状態でコリントにやってきたと言うのです。
★パウロが、「わたしも」と繰り返し語るその裏には、あの「十字架にかけられたままの姿の」イエス様がおられます。イエス様はきっと十字架の上で「優れた言葉や知恵を持たず」「衰弱し、恐れに取りつかれ、ひどく不安」だったろう。そうであるからこそ、パウロは失意の中にあっても独りぼっちじゃない、「わたしも」と語ることができたのです。パウロは繰り返し「わたしも」と語りながら、言外に「イエス様がわたしと一緒におられる」と言い表しているのです。
★世の中から排除され、追い払われてしまうのじゃないかという恐れ、不安、そういうものを、イエス様がパウロに手をさしのべ、パウロの手を握り、パウロの体に自分の体を触れ合わせて、そうしてイエス様が、パウロのつらい気持ちをいま共に感じ取っていてくれる。一緒に感じていてくれるということ、です。