9月27日の週報コラム「ひだり手」
★使徒信条には「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とありますが、「苦しみを受ける」とは、ラテン語の原文では「パッスス」という一つの言葉で、もとは単純に「受ける」という意味の言葉です。だから単に「ポンテオ・ピラトのもとに『受けて』」と言い換えることもできるはずです。
★「回診をする。患者さんはベッドに横になっている。元気になって退院するか、悪くなって死を迎えるか、それまではベッドに横たわる。病気が思わしくない時、患者さんの横にもうひとりの人がいるのをよく見る。病気でもない人が病室にいる。患者さんのそばにいる。じっといる。…『ピンポン、ピンポーン』。ナースコールが鳴る。『食べれんです。苦しいです』。もうひとりの人は用事で出かけている。…鎮痛薬も安定剤も何も効かない。…看護婦さんも困り果てる。その時もうひとりの人が買い物袋を下げて帰ってくる。『遅くなってごめんね』。ナースコールはぴたっと止む。不思議なことに痛みもピタッと。死にゆく人は垂直の力の中にある。心は天に、体は重力で地に向かう。もうひとりの人がそばにいると、二つの物体の間に引き合う水平の力が生まれる。垂直の力の中に水平の力が加わると、死は温かい」(徳永進『こころのくすり箱』より)
★いのちはどの人のいのちも「受けた」ものであり、それはまた、別の誰かに注ぎ出されていく。いのちといのちは、確かに繋がりあっている。一人の人の苦しみは、別な人のための苦しみであり、その苦しみは、また別な人の苦しみであり得る。わたしが苦しむイエスのそばにいる。すると、苦しむわたしのそばにイエス様がおられることが分かってくる。その時、確かに、あのイエスの苦しみが、わたしたちのためのものである。そんな命の持つ、「水平の力」をわたしたちに示すために、イエス様はあの苦しみの生涯を送られたのでしょう。