8月2日の週報コラム「ひだり手」
《トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」……それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」》(ヨハネによる福音書20章25~27節)
★ここで「この指を釘跡に入れてみなければ…この手をわき腹に入れてみなければ…」とある「入れてみる」という言葉は、もともと「投げ込む」という意味の言葉です。結構乱暴な言葉で、強いて言えば「ぐいぐい突っ込む」といった具合でしょうか。
★自分の悩みに心を失ってしまう時、わたしたちはしばしば人に当たり散らすことがあります。自分がどれだけ人を酷く傷つけているのかさえ、気づけなくなってしまいます。そういうわたしたちの有様こそ、人間の最も奥深い「業」とでもいうものを表しているのかもしれません。
★そんな「業」に縛られたトマスに、イエスは静かに語りかける。「あなたの指をここに当てて、わたしの手をご覧なさい。あなたの手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい」と。このイエス様の言葉を聞いた瞬間に、トマスの手のひらと脇腹にも痛みが走ったことでしょう。その痛みと共に、トマスの胸の奥底から熱い熱い思いが込み上げてきたのでしょう。それが言葉になったのです。「わたしの主、わたしの神よ」。
★信仰とは、「正しい教理」に従うなんて理屈っぽいことではなく、こんな熱い思いの内に、不思議と沸き上がってくるものなのだと思います。