日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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6月28日の週報コラム「ひだり手」

「『信』を置くということ」

★6月18日の朝日新聞のオピニオン欄に水俣病患者の緒方正人さんの言葉が載りました。与党政府が水俣病の未認定患者救済策で、患者に一時金を支払って問題の終結を計る特別措置法案を、今の国会に提出していることに対する意見です。その中で緒方さんのこんな言葉が深く印象に残りました。
★「患者には三つの誇れることがある。病に苦しみながらも魚や海を恨まなかったこと。胎児性患者が生まれようとも、子どもを選ばず産み続けたこと。そしてチッソの社員や公務員を傷つけなかったことだ。人々は不知火海を大切にし、『信』を置いて生きてきた。かつて水銀という毒を流され、傷ついた海は、埋め立てで藻場は消え、魚は減り続ける。そんな海の再生に、国や県やチッソは力を注いだらどうか」。
★キリスト教において信仰とは、イエス・キリストという一人の人の生き様との出会いによってもたらされるものに他なりません。そういう意味で信仰とは、「わたしの信仰」というように、自分の持ちもの、あるいは所有物のようには語ることのできないものなのです。「わたしの信仰」「わたしの誠実さ」「わたしの謙虚さ」等々、そんなちっぽけな「わたしの持ちもの」なんて、吹き飛んでしまうような出会い。それがイエス・キリストとの出会いであり、そのイエス・キリストとの出会いによってもたらされるのが「信仰」というものなのです。
★「人々は不知火海を大切にし、『信』を置いて生きてきた」。「わたしの信仰」といったちっぽけな自分の所有物ではなくて、苦しみをもたらした海や魚を恨まず、命を選ばず、敵の命も傷つけることはしない。そういう大きな大きな命というもの全体に対する「信」というもの。イエス様が最初に人々に伝えた信仰とは、もともとそういうものだったのではないでしょうか。
by oji-church | 2009-07-02 09:35 | 牧師からのメッセ-ジ