4月5日の週報コラム「ひだり手」
《わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに》(マタイ10:34~35)
★イエスの周りには、罪人と呼ばれる人々、病気やしょうがいを負う人々が集まっていた。彼/彼女らは、家族や故郷の交わりから追放されて生きていたのである。しかしイエスはそうした人々のもとにこそ、神様は「天のお父さん」として訪れるのだと説き、やがて、彼/彼女らこそが社会の交わりの中で生き生きと生きられる「神の国」が来るようにと願いつつ働いた。
★そういうイエスの活動は、常識的な家族の中で生きる人々に、「家族」とは何かと厳しく問いかけるものだった。「わたしと一緒に活動しようと思うのなら、家族から捨てられたようにしか生きられない人々との交わりに自分の身をさらさならない」と呼びかけたわけだから、それは当然常識的な家族の在り方からはみ出るものであり、確かに「家族の間に剣をもたらす」ものに違なかった。
《彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける》(マタイ12:19~21)
★しかし同時にイエスは、人間が決して壊されてしまわないようにと臨む人だった。やはり究極のところで、人の生命を何よりも尊ぶ人であった。
★人間は、人間の固まりや、枠に収まらずとも、一人一人がそのように愛されて、守られて然るべき存在なのだということを、イエスの剣と灯火とが告げている。一人一人に呼びかけるイエス様の厳しさ、その剣と、一人一人へと注ぐイエスの優しさ、その灯火とを、共ならがらに心に抱きしめて歩んでゆくものでありたい。