日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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聖霊降臨節第21主日
10月22日(日)午前10時30分
説教「ゆるしという生き方」
大久保正禎牧師

【聖書】マルコによる福音書3章1~6節
【讃美歌】25.61.452.419.79.64.92-1
【招詞】アモス書4章13節
【信仰告白】讃美歌61番

# by oji-church | 2017-10-18 10:22 | 全体のお知らせ
「新しいわたしたち」

〈だれも、織りたての布から布切れをっとって、古い服に継ぎを当てたりはしない。…また、だれも新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない〉(マルコによる福音書2章21~22節)

★実はわたしたち人間というのは、目に見えるものだけを見ているだけでは、「希望」なんて、どこにも見出すことができないのです。なぜって人間には未来を見通すことができないのだから。目に見える隣国のミサイルとか、テロとか、独裁者だとか、そういうものに突き動かされているのではどこからも本当の「希望」なんて生まれてきはしないのです。「希望」というのは敢えて持つもの、嬉しいことや楽しいことが何処にも見当たらなくても、目に見えるものはミサイルやテロや独裁者であったとしても、それでも「希望」を持とうとわたしたちが心に決める時、その時初めて「希望」というのはわたしたちの胸の内に、小さな新しい芽を芽生えさせるのでしょう。
★以前信徒の方が礼拝で語ってくださった言葉が今も心に響いています。「どんな人でも、今が一番若いのですから」。自分の内に「新しいもの」「喜ばしいもの」を見つけ出すことが難しくなってくると、わたしたちは、自分の過去に依り頼もうとします。自分はこれだけのことをやってきた。こんな経験をしてきた。これだけのことを知っている。分かっている。そうやって自分を人よりも「上」の立てて、自分を守ろうとしてしまうのです。「どんな人でも、今が一番若いのだから」。そこには「自分の」業績や経験ではなくて、「神様が」造り出す、まだ見えない未来に、喜びを見出そうとする「希望」が感じられます。生きている限り、今日という、神様が作られる「一番新しいもの」を与えられている点では、生まれたばかりの赤ちゃんも、お年寄りも、まったく変わりはないのです。
★ここでイエス様が言われている「織りたての新しい布」「新しいぶどう酒」「新しい革袋」というのは、新しい今日という日を与えられているわたしたち自身のことなのです。一方「古い服」「古い革袋」というのは、わたしたちが自分自身の過去の業績や経験に依り頼んで、「上から目線」で世の中を見ようと苦労しているわたしたちの心持ち、有様のことなのでしょう。
# by oji-church | 2017-10-18 10:21 | 牧師からのメッセ-ジ
「病むことを当たり前として」

〈医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである〉(マルコによる福音書2章17節)

★8月に腰を痛めて4日間入院。歩行不能のわたしは看護師さんにストレッチャー、ベッド、車椅子で運ばれる日を送りました。普段お見舞いで伺いスタスタ歩く事になれた病院の廊下を「運ばれる」時、何とも言えない気持ちを味わいました。「情けない」「格好悪い」「申し訳ない」……。でもそれはもしかしたら、介護や介助を受ける側に身を置いておられる多くの人たちが、内心で感じていることかもしれないなあと思ってみるのです。そんな介護や介助を受ける側に身を置く人の胸の内に秘められたかすかな声は、なかなか世の中の表舞台には上がってきません。世の中の表舞台は、健康で丈夫な、介護・介助される必要のない人間というものを「当たり前」として成り立っていて、そういう小さな声に焦点が当てられることはほとんどありません。
★「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。ここでイエス様は、丈夫な人ではなく、病気の人に焦点を当てて、世の中の表舞台の真ん中に置くのです。確かに病気の人がお医者の手当てを、介助を、介護を必要とするのは「当たり前」のことです。イエス様は、丈夫で、自分の足で立ってスタスタあるいて「人を助ける側」にいるのが「当たり前」という世の表舞台のありようをひっくりかえして、むしろ病気の人をその真ん中に置いて、病気の人が手当てや介護や介護を必要とすることこそが「当たり前」であって、それは「情けない」ことでも「格好悪い」ことでも「申し訳ない」ことでもないと言われているのです。いわば、立ってスタスタ歩く目線を「当たり前」にするのではなく、車椅子に座り、ベッドに横たわり、ストレッチャーに寝かされて運ばれる時の目線をこそ、「当たり前」として、この世の中を見直してみること(=悔い改め)をわたしたちに呼びかけているということでしょうか。
# by oji-church | 2017-10-11 15:27 | 牧師からのメッセ-ジ
「愚直の信」

〈四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがし穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に「あなたの罪は赦される」と言われた〉(マルコによる福音書2章3~5節)

★当時、「治らない病気」は「呪い」によると考えられました。治癒が困難であればあるほど、それはより強い「呪い」、すなわち、「神様の呪い」と考えざるをえなかったのです。それでもなお、この四人の人たちが中風の人をここに運んできたのは、彼らの思いの内に、「いや、神様は、人を永遠に罰するような、そんな呪いを人間に下す神様ではなく、人を祝福する神様であるはずだ」と、そんな強い希望があったからではないでしょうか。イエス様だったらそんな本当の神様の姿をよく知っているはずだ、と連れてきたのです。
★イエス様に引き合わせるために、人の家の屋根をひっぺがえすなど、アホのやることです。わたしたちはしばしば、クリスチャンになると途端に「訳知り顔のクリスチャン」になってしまいます。でも、信仰とは「愚直」であること、「愚かになる」ことでもあるのではないか。何に対して? それは、「神様は、人を祝福する神様であって、人を呪う神様であるはずがない」という希望に対して。病いを得ているどの人も、生きることに困難や厳しさを負っているどの人も、神様の祝福から外れているはずがないと。その困難や厳しさを乗り越えて、一緒に、与えられた命を喜んで生き生きと生きることのできる道が必ず備えられているはずだと。神様に対して「愚直」であることは、必ず、自分一人のわたくし的な「心の中の信仰」に留まらず、自分以外の人と手を取り合って共に生きることへと繋がっていきます。
★彼らの「愚直」な信仰を「見て」、そこに心を重ねて、イエス様は言われます。「あなたの罪は赦される」。「見てご覧。あなたはこんなにも愚直に、人を祝福する神様への希望を携えた人たちに囲まれているじゃないか。そうならば、あなたは神様に呪われてなんかいるものか。こんな人たちに囲まれて、あなたは確かにもうすでに、目一杯神様に祝福されているぞ」。そんなふうにイエス様は言われたのじゃないかと思うのです。
# by oji-church | 2017-10-04 12:21 | 牧師からのメッセ-ジ
「煽られた危機感の先には」

★先週、朝鮮がミサイルを発射しました。これに際して日本政府は「Jアラート」なる警戒警報を、北海道から東北、北関東3県、他に新潟、長野の計12県に発したということです。わたし自身、先月29日、秋田県にいた時にこの「Jアラート」を受けました。朝6時頃、突然枕元のスマホがすさまじい音量でビービー鳴り出しました。「こんな音で目覚まし、掛けたっけか?」と思いながらスマホを取り上げると、なにやら「国民保護情報」云々と書かれていましたが、寝ぼけて何かボタンを押したらすぐに消えてしまい、何のことやら分からぬまま、また寝てしまいました。
★朝鮮がいきなり日本にミサイルを撃ち込むことがないことは、現在までの情況を考えれば明らかです。また、実際に核弾頭を搭載したミサイルが日本に向かって発射されたなら、こんな警報が間に合わないことも明らかです。こうした警報を発することで、人の危機感や恐怖感を煽って、戦争をする態勢へと人心を束ねていこうとする意図があるのではないかと勘ぐってしまいます。
★84年前、桐生悠々という信濃毎日新聞の記者が「関東防空大演習を嗤う」という記事を書きました。昭和8年東京市を中心とした関東一帯で行われた防空演習を批判して「如何にそれが大規模のものであり、また如何にしばしばそれが行われても、実戦には、何等の役にも立たないだろう。帝都の上空に於て、敵機を迎え撃つが如き、作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。壮観は壮観なりと雖も、要するにそれは一のパッペット・ショーに過ぎない」と語りました。この記事を読んだ信州在郷軍人会が信濃毎日新聞の不買運動を展開し、桐生は信濃毎日新聞を退社することを余儀なくされました。
★煽られた危機感によって自由な発言や批判が封じられた先には、有無を言わせぬ戦争が待っています。その時犠牲にされるのは一般庶民に他なりません。「Jアラート」は決して「国民を保護する」ものではありません。そんなことよりも、国際間に対話の気運を開くように努めることのほうが、余程意味あることではないかと思います。
# by oji-church | 2017-09-20 11:13 | 牧師からのメッセ-ジ
「いやし―人をひととして向き合うこと」

〈イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人をいやし…〉(マルコ1:34)。

★聖書で使われる「いやす」という言葉は「テラペウオー」というギリシア語です。辞書で調べてみると、最初に出てくる意味は「いやす」ではないのです。「奉仕する、仕える、侍する、(神を)祀る、尊崇する」とあって、「世話をする、面倒をみる、意を用いる、心がける、配慮する」、次は「ご機嫌をとる、歓心を買う、へつらう、おもねる」、次に「育む、養う、大切にする、重んずる」とあって、その次「看護する」とあって、ほとんど最後に「治療する」とあります。聖書はイエス様のいやしの業をサラッと書いていますが、パパッと癒して「はい、次」というような「お手軽」なものではなかったのじゃないかと思えてきました。
★先月、腰を悪くして4日間入院しました。看護師さんたちには本当に頭が下がりました。担架で、ベッドで、車いすで運ばれ、歩行器で歩くのに付き添われしました。普段自分の足でスタスタ歩いている自分がどれだけ、高い目線でしか物を見ていないかを知らされました。そんなわたしを看護師さんたちは、丁寧に丁寧に、チョットした段差にも声を掛けて配慮して運んでくださいました。夜中中叫んで居られるお年寄りもいました。それでも嫌な顔一つせずに、呼ばれればそばに行き、説教めいたことは一言も言わず、言われたことに応える働きをなさっておられた。そういう看護師さんたちがおられることに心打たれました。
★「藪医者は人で持つ」という言葉があります。病気が治るかどうか以前に、病いや怪我を負った人を、尊い一人の人間として大切に、丁寧に扱ってもらえるかどうか、それがもうほとんど全部じゃないか、という思いを一層強くしました。イエス様がなした「いやし」「テラペウオー」というのも、そういうものだったのじゃないか。人を人として大事にする、心を通わせることのできる相手として向き合う。専門家にしかできないことではありません。だけれども、簡単にできることだとも思いません。問われているのは、わたしたちがどれだけ、人を人として、大切な存在として見つめ、向き合うことができるかということでしょう。

# by oji-church | 2017-09-14 13:07 | 牧師からのメッセ-ジ
「記念―想い起こすこと」

★世の中では、学校で会社でも、しばしば創立何周年記念というお祝いをします。教会もしばしば同じように、創立記念の日にお祝い事をするのですが、聖書では「記念」という言葉は「想い起こす」という特別な意味を持っていることを知らされます。
★想い起こすという人間の営みには、さまざまな感情が伴わざるを得ません。時には胸の痛みや恥ずかしさ、悲しみと共に想い起こされる思い出もあります。しかし同時に、わたしたちが痛みや恥ずかしさや悲しみを越えて、前に進んでいくための力や励ましを与えられるのも、やはり「想い起こす」ことを通じてではないかと思います。わたしたちには未来を見晴るかすことはできません。わたしたちの胸の内に残されているのはすべて過去の出来事です。しかしまたわたしたちは、前に向かって、未来に向かって進んで行かなければなりません。その時に、前に向かって歩みを進めるわたしたちを支える杖となるのも、やはり過去の経験なのです。
★聖書を開けば、そこに語られているのは、ほとんど最初から最後まで、過去を想い起こす人間の営みです。聖書の中で神様は繰り返し「想い起こして見なさい」と人々に呼びかけています。聖書の中でイスラエルの人々は、神様によって繰り返し繰り返し、過去を想い起こすことを促され、そこに示されていたはずの神様の指し示しに、自分たちが、また自分たちの先祖が従い得なかった「罪」を直視させられるのです。しかしそれと同時に、その「罪」にもかかわらず、繰り返し神様がイスラエルの人々に呼びかけ続けてこられた、そしていまも呼びかけ続けておられる、そういう神様の姿をも想い起こさせられるのです。そうした改めて、神様から、今、そしてこれから未来に向かってわたしたちが進んで行く道筋を示される。それが、聖書の最初から最後までほとんど全部の頁に語られていることであり、この「想い起こす」という営みそのものが、聖書の信仰と言ってもよいでしょう。ですから、わたしたちもまた、教会の歴史を記念する時、単にそれを祝うのではなく、「想い起こす」ことが求められているのです。
# by oji-church | 2017-09-07 10:54 | 牧師からのメッセ-ジ
「なすべきこと―石の叫びに耳を寄せて」

★戦争から72年目の8月を迎えています。先月誕生日を迎えて48歳になりました。戦争後の72年とわたしの生きてきた48年とを引き比べると、丁度この敗戦後72年の3分の2の時間を生きてきたことになります。8月を迎える度に、わたしたちは戦争によるあまりにも多くの犠牲に思いを致し、平和を求めて礼拝を行っていますが、70年以上にわたってそれを積み重ねてきながら、いまのわたしたちを取り巻く状況を見ると、70年経ってまた、戦争の前に舞い戻っているかのようです。「特定秘密保護法」「安保法制」「共謀罪」と、いずれも戦前、民主主義の存在しなかった日本で、人々を国の都合で操り、戦争へと駆り立てる諸々の法律が定められていきましたが、それと同じものがいま、出揃っている有様です。この72年間、わたしたちは何をやってきたのか。少なくともその3分の2、半分以上の責任を、わたし自身も負っているのです。今からでも遅くない。そう信じて、なすべきことをなしてゆきたいと願うものです。
★わたしたちが平和を形作ってゆくために、まずなすべきことは何だろうか。イエス様は「もっとも小さい者にしたことが、わたしにしたことなのだ」と言われます。わたしたちは、この世界で「もっとも小さい者」を見つけることはできません。「もっとも小さい者」とは「わたしよりも小さくされた者」のことなのでしょう。平和を求めて進む時、それは、あの戦争によって無念の死を遂げた人々のことではないでしょうか。すくなくともいまここにいるわたしたちは、戦争によって命を奪われてはいないのですから。戦争によって無念にも命を奪われた人たちの、その声に耳を傾けること。それが平和を求めて進む時、わたしたちがまずなすべきことではないでしょうか。亡くなった人は声を挙げることはできません。それでもなお、その声なき声に耳をそばだてようとするとき、きっと聞こえてくる声があるはず。イエス様もそう言われています。「この人たちが黙れば、石が叫びだす」(ルカ19:40)と。平和を求める石の叫びに耳を寄せ、それをわたしたち自身の声として、平和を求め、形作ってゆきたいと願います。
# by oji-church | 2017-08-24 12:34 | 牧師からのメッセ-ジ
「余計なこと」(3)

★「お前は俺たちの何だ?」。この叫びに対してイエス様は「自分は関係無い」と引き下がるのではないです。「黙れ、この人から出て行け」とお叱りになった。このイエス様の台詞は一見すると、この「悪霊に取りつかれた人」に向かって叱りつけているように聞こえますが、ちがうんじゃないか。むしろこの人をよってたかって虐めて、排除するあのいじめっ子たちに向かってこそイエス様は言っているんじゃないか。そんな気がしてきました。
★灰谷健次郎さんという児童文学者の『太陽の子』という作品の中には、こんな言葉が出て来ます。「いい人ほど勝手な人間になれないから、つらくて苦しいのや、人間が動物とちがうところは、他人の痛みを、自分の痛みのように感じてしまうところなんや。ひょっとすれば、いい人というのは、自分のほかに、どれだけ、自分以外の人間が住んでいるかということで決まるのではないやろうか」。主人公のふうちゃんという小学六年生の女の子の思いです。「感じて『しまう』」というのは、そうしようと思わなくても、それを「感じてしまう」ということです。そのようにわたしたちのいのちというのは、実は目に見えるわたしたちのこの身体の外にもはみ出して、広がって、人と出会い触れあい、やがて自分のほかの、自分以外の人の「痛み」や「悲しみ」が住むようになる、ということではないだろうか。
★人の「痛み」や「悲しみ」なんて、自分が幸せに暮らすためにはまさに「余計なもの」に思え、そんなものに「手を出すな」「考えるな」と思われるかもしれません。だけれども、わたしたち人間は、自分をはみ出して自分以外の人と出会い触れ合って、お互いにその「悲しみ」や「痛み」を自分の中に住まわせることを通じて、初めて、お互いを理解し合い、お互いを大切な存在、かけがえなく、愛おしいものとして見つけ出すことができるのではないでしょうか。それは決して「余計なもの」などではないでしょう。
# by oji-church | 2017-08-18 13:31 | 牧師からのメッセ-ジ
「余計なこと」(2)

〈「ナザレのイエス、かまわないでくれ(お前は俺たちの何だ?―私訳)。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。〉(マルコによる福音書1章24~25節)

★「余計なことに手を出すな」「余計なことを考えるな」。そう叫ばれる社会の中では、必ず犠牲とされる人たちが生み出されます。お金儲けのことだけを考える社会の中で、過重労働で命を奪われる人たちが生み出されています。子ども食堂にくる子どもたちを見ていると、やはりそんな社会の中で犠牲とされ、切り捨てられ、居場所を失っている彼女ら、彼らの密かな、言葉にならない思いが伝わってきます。高齢者も同じように切り捨てられようとしています。沖縄に基地が押しつけられ、原発が地方に押し付けられているのも、やはりそんな社会の中でこそ起こっていることのように思われます。
★「お前は俺たちの何だ?」。この言葉を聞くと「余計なことに手を出すな」「余計なことを考えるな」、そう叫ばれる社会の中で一人の人をよってたかってイジメている、そのイジメっ子に向かって「そんなことをしてはいけない」と注意すると返ってくる台詞、「お前は俺たちの何だ?」「お前には関係無いだろ」。そんな台詞に聞こえてくるのです。この「悪霊に取りつかれた人」は、そんなイジメを受けて、のけものにされ排除されてきた、そんな経験を幾度となく重ねてきたのじゃないか、そんなふうに想像するのです。その内に「お前は俺たちの何だ?」というイジメっ子たちの台詞を自分の胸深くに突き立てられて、いつからか自分の口からその台詞を、自分自身に向かって叫ぶようになったのではないかと。(つづく)
# by oji-church | 2017-08-09 10:26 | 牧師からのメッセ-ジ
「余計なこと」(1)

★いま日本では、クリスチャンや教会に集まる人の数が全国的にどんどんと減っています。またそれは日本ばかりの問題でもなく、世界的にクリスチャンの数は減る傾向にあるようです。そういう厳しい状況の中にあって、教会の中では、余計なことには手を出さずに、ひたすらにクリスチャンの数を増やすことを目指して、「伝道」に集中しようという動きが強まっていきます。伝道によって新しく教会を訪れる人が一人でもあることは、この上なく嬉しいことに違いありません。でも、考えて見なければならないのは「余計なことには手を出さずに」というところです。人にキリスト教のことを伝えて、洗礼を受けるまでに人を導くこと、もうそれ以外のことには「手を出さない」「考えない」ということ。信仰告白の文章や、教会の規則に則って、そこからはみださないように、それ以外のことはやらずに、考えずに、ただひたすら洗礼を受ける人を増やしなさいと、そういう動きが強まっていきます。それに従わずに「余計なこと」をやろうとする人は、ルール違反だ規則違反だ、信仰に背く行いだと言って断罪されることになります。それは今に限ったことではなく、明治以後の日本の教会の歴史を見てみると、教会が厳しい状況に置かれるたびに、繰り返しそういう動きが起こってきたことが分かります。
★教会以外の人の集まりでも厳しい状況の中では同じようなことが起こってきます。戦争中の日本の国のありようを見れば、それはすぐに分かります。「欲しがりません、勝つまでは」「進め、一億火の玉だ」「撃ちてし止まん」、そんなスローガンの下に、戦争以外のことは考えるなと教えられたのです。従わない人は「非国民」として断罪されました。長引く不景気の中で、大企業がお金儲けをすることをだけを考えるように、それ以外のことは考えるな、弱く小さな立場にある人間はその犠牲になれ、と言われていて、それに従わない人は、ヘイトスピーチの標的にされてしまう。そんな空気がこの国全体を覆っているように感じられるのです。
# by oji-church | 2017-08-02 12:32 | 牧師からのメッセ-ジ
「まっすぐ」

〈イエスは、「わたしについて来なさい。人間の漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った〉(マルコによる福音書1章17~18節)

★イエス様から呼びかけられ、「すぐに」全てを捨てて従うなんてことは、誰にとっても難しいことです。実はこの「すぐに」という言葉は、この福音書を書いたマルコの口癖のようなもので、福音書のいたるところに出てくる言葉です。マルコによる福音書ではしばしば、何か新しいことが起こる時に「すぐに」という言葉が出てくるのです。
★この「すぐに」という言葉、もとは「まっすぐ」という意味の言葉です。わたしたちは日々クヨクヨしたりオロオロしたりしながら、毎日現れてくる新しいことにビクビクと恐れながら、向かっていかざるをえません。聖書が語る「すぐに」というのは、もしかしたら、わたしたち人間の振るまいであるよりも、「わたしについて来なさい」と言うイエス様の向こうから注がれる神様のまなざしを表しているのかもしれないと思うのです。進んでいくわたしたちの生身の姿に「まっすぐに」注がれる神様のまなざしです。
★谷川俊太郎さんの詩に「まっすぐ」という題の詩があります。「キューピッドの矢のように まっすぐ/レーザーの光のように まっすぐ//まっすぐはとどく/まっすぐは貫く/まっすぐは跳ね返る/まっすぐは終わらない//赤んぼの鳴き声のように まっすぐ/玉突きの玉のように まっすぐ//まっすぐを生み出す力は/まっすぐではない/まがりくねり/せめぎあってる」。神様のまなざしは、オロオロし、クヨクヨし、ビクビクしながら曲がりくねった道を歩いているわたしたちに向かって、わたしたちに寄り添って、まがりくねり、せめぎあいながら、それでもいつもまっすぐに注がれているのではないか。そのまなざしを心に刻みながら、クヨクヨ、オロオロ、ビクビクしながらでも、イエス様にしたがって生きる道を、生きてゆきたいと願うのです。
# by oji-church | 2017-07-25 13:25 | 牧師からのメッセ-ジ
「不思議な時」

〈時は満ち、神の国は近づいた〉(マルコによる福音書1章12~13節)

★聖書には時を表す言葉が二つあります。一つは数字で表すことのできる「時間」(クロノス)、もう一つは数字では表せない「時」(カイロス)。ここでは「カイロス」が遣われています。
★わたしたちは生きている中で、不思議な「時」を経験することがあります。普段は数字で測られる時の中で、いついつまでにあれをしなくちゃ、これをしなくちゃと慌ただしく生活しています。しかし例えば、親しくしていた人が亡くなった時。その時、わたしたちはその人がもうこの世にいない現実をまざまざと突きつけられて、悲しみに暮れます。だけれどもそれと同時に、その人が生きていた時、あんなことがあった、こんなことを言っていた。そういうことが生きていたその時よりも一層しみじみと、ありありと、掛け替えのない、愛おしいものとして甦ってくることはないだろうか。そういう経験は、わたしたち人間が本当に人間として人間らしく生きて成長していく上で大切な、そして欠かすことのできない経験でありましょう。普段は時計を見い見い、せわしなく生きている。でもそんな数字で測られる時間を生きる中で、あるときふと、過去のなにげない経験が、自分にとって掛け替えなく愛おしい、尊いものとして甦ってくる。そんな不思議な「時」をわたしたちは経験します。聖書の時代の人は時計なんて持っていませんでした。その分、その時代の人たちはそういう不思議な「時」の経験を、わたしたちよりもより敏感に感じ取り、深く胸に刻みながら生きていたでしょう。
★そんな「時」を感じ受けることが、「神の国は近づいた(近くにある)」というこことなのかもしれません。
# by oji-church | 2017-07-19 09:20 | 牧師からのメッセ-ジ
「野獣と一緒にいたが」

〈霊はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒にいたが、天使たちが仕えていた〉(マルコによる福音書1章12~13節)

★野獣は自分のために、人に襲いかかり、爪を立て、食い破って省みないもの。でも実は、人は誰しもが、自分の内に、そんな野獣のような思いを秘めているものではないか。自分のために人を犠牲にして省みない残酷な思い、です。教会では「隣人を愛しなさい」「すべての人の僕になりなさい」と教えられます。野獣などもってのほか。だから表面上は、お上品に、麗しく振る舞うことを身につける。だけれども、この腹の底の野獣は死に絶えたり、どこかへ行ってしまいなんかはせずに、やっぱりそこに居続けるのです。だから、表面上は麗しく振る舞っていたとしても、人に意地悪したり、陰口を叩いたりして、野獣を時々宥め返し、自分を騙して生きている。そんなわたしたちじゃないでしょうか。
★聖書がわたしたちに語るのは、この野獣と闘って打ち勝ち、根絶やしにしてしまえ、ということではありません。聖書が語るのは「野獣が一緒にいたが、天使たちが仕えていた」ということ。自分をだまし、人をだまして、おもてづらだけお上品に、麗しく振る舞うのではなくて、わたしと同じように腹の底に野獣を抱えた人々と出会い、触れあって、時には、少しでも、その人を思って生きること。野獣を抱えていたとしても、掛け替えのない大切な存在なのだと、そう、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神様から呼びかけられた存在なのだと思い返しながら。霊は、この神様の呼びかけをいっそう深くイエス様のいのちに、働きに刻み込むために、イエス様を荒れ野へと放り出したのではないだろうか。
# by oji-church | 2017-07-13 11:00 | 牧師からのメッセ-ジ
「やさしいつながり」

〈「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。」〉(マルコによる福音書1章11節)

★教会で子ども食堂を始めて八ヶ月になりました。最初はただ子どもを集めて、食事を提供すればそれで済むことと考えていました。けれども、一人また一人と、家庭にも学校にも居場所を持てない子どもたちが集まって来ました。送り迎えをする中で、その子どもたちが、この食堂の場を、自分たちの居場所としてどれだけ心待ちに、楽しみにしてくれているかが、ひしひし伝わってきます。居場所を持たない子どもたち、と言って、じゃあ「居場所」って何なのだろうかと考えます。
★子どもたちは、確かにご飯を食べにやって来るのだけれども、でも求めているのは実はご飯じゃない。子どもたちの様子を見ていると、飢えているのは、何よりも人との「つながり」です。それも「やさしい」つながり。じゃあ、やさしいつながりって、いったいどんなつながりか? それはもしかして、「あなたは大事な存在だよ」という声を、呼びかけを、語りかけを、受け取るつながりじゃないかと思い至ります。子どもたちは、家庭でも、親が病気だったり、忙しかったり、問題を抱えていたりして、その声を受け取ることができずに、やさしいつながりに、ひときわ飢えている。でも子どもだから、それが何なのか、よく分からないし、うまく言えないでいる。そんなふうに感じられます。
★わたしたち人間は、道具として生まれてくるのではないから、何かを求めて生きる。裸で生まれた赤ちゃんの時からずっと、何かを求めて生きている。その裸の存在に向かって、何の条件もなく、無条件に「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、「あなたは大切な存在です」と語りかけられる時、はじめてわたしたちは、誰かのために生きることができるようになる、のではないでしょうか。

# by oji-church | 2017-07-05 11:29 | 牧師からのメッセ-ジ
「宣教に境界線はありません」

★今年度の王子教会の主題に「神を愛し、人を愛する教会」という言葉を挙げました。その根っこにあるのは、教会の宣教ということを、皆でもう一度考えてみようということです。「皆で」というところが大切な点です。
★教会の宣教を考えるという時には、どこかに境界線を引っ張ってはいけないのだと思います。この人だけが考える。このことだけを考えるというのではいけない。なぜなら教会というのは、神様と出会って神様に繋がっていく場所だから。その神様は、この世界のすべてを造られた神様なのだから。わたしたち一人ひとり、すべての人間を創られている神様なのだから。
★福音書には、様々な人々の生きる姿が描かれています。この世の生活の中で、様々な苦労を負う人、挫折を経験している人、悲しみや痛みを背負う人、高慢な人、イエス様に「わたしについてきなさい」と言われながら、ついていくことができない人。いずれも教会の外で生きている人々の姿です。でも福音書には、その教会の外で、イエス様と出会うことによって、新しい生き方に気付かされていく人たちの姿が描かれています。
★日曜日は教会に行って礼拝に出席する。でも他の日は神様のことも、イエス様のことも忘れて、この世のものの見方、考え方にすっかり浸って生活している。それではキリスト者である意味も、甲斐も無くなってしまいます。教会で神様と、イエス様と出会い、その神様・イエス様との出会いを携えてこの世に出て行き、そこでの様々な人との出会い・触れあいの中にまた、神様・イエス様との出会いを見出して、また教会に戻ってきて、神様に、イエス様に感謝を献げる。それがキリスト者としてのわたしたちの生き方ではないかと思います。
# by oji-church | 2017-06-28 13:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「いのちをわけあえば」

〈自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな〉(マルコによる福音書2章5から6節)。

★『世界がもし100人の村だったら』という本には、こう書かれています。「村に住む人びとの100人のうち、20人は栄養がじゅうぶんではなく、一人は死にそうなほどです。でも15人は太り過ぎです」。いま世界の人口はだいたい70億人です。計算すると14億人は栄養が十分じゃない。7千万人は食べるものが無くて死にそうです。でも10億人くらいの人たちは食べ物が有り余っています。
★わたしたちは結構、食べ物を食べないで捨ててしまったり、残してしまったりしていますよね。食べ物が余っている人がいるいっぽうで、食べるものが無くて、死にそうになっている人がいるのが、いまわたしたちの生きているこの世界です。
★日本でも、6人に1人の子どもが「貧困家庭」といわれます。日本の場合は、「今日食べるものがない」わけではないかもしれません。けれども、他の友だちと同じように、学用品を揃えたり、習い事をしたり、上の学校に進学したり、着るものや食べるものを選んだりすることができません。それでいじめられたり、ひとりぼっちにさせられたりしてしまう子がいます。そんな国の中にわたしたちはいま、生きています。
★そんな世界に生きているわたしたちに向かってイエス様は「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むのをやめなさない」と言われるのです。食べ物や着るものを選べない人がいる時、持っている人が、持っていない人と分け合ったとしたら、もしかして、みんなが生き生きと生きることができるようになるんじゃないか。「自分の命」「自分の体」「自分の食べ物」「自分の飲み物」「自分の服」、自分自分自分。わたしたちは結構いつも、自分のことばかり考えて生きています。だけれども、自分のことばっかり考えるのはやめないかい? そうイエス様は言っているのじゃないかと思うのです。(6月11日「花の日」こどもとおとなの合同礼拝説教より)
# by oji-church | 2017-06-20 16:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「聖霊が語らせる言葉」

〈エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まってきた。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった〉(使徒言行録2章5から6節)。

★「信心深い」という言葉は、もともと「よく受けとめる」という意味。相手に対して「しっかり丁寧に心遣いをする」というような意味です。そういう人たちが集まって来て、「自分の言葉」(「自分の故郷の言葉」とありますが、もとのギリシア語の原文には「故郷」という言葉はありません)が話されているのを聞いたということです。
★「相手に対してしっかり丁寧に心遣いをする人たち」が、「自分の言葉」が話されているのを聞いたということ。いま、戦争が平和と言い換えられ、支配と監視が安全と言い換えられ、搾取が自由と言い換えられ、いろいろな言葉が正反対の意味に使われて、嘘がまん延して、現実が歪められている世の中にあってそれは、問いかけ、答えて、理解し合う。語りかけ、聞き受けて、共感する。そのようにして、現実の、いま目の前に現に生きている人と出会って共に生きる、そういう言葉本来の役目をきちんと果たす、丁寧な言葉が交わされた、ということではないかと思うのです。
★目の前に現に生きている人と出会うことが、とても難しい時代にわたしたちは生きています。だれもが人と出会うことよりも小さなスマホの画面に夢中になっています。自分だけの世界に浸ることが多くなれば、その分、現実のほうはどうでもよくなっていきます。実際の現実の方はいま、国々の指導者の得手勝手が大手を振って闊歩するようになっていて、世界は戦争へとまっしぐらに突き進んでいるように思えてなりません。そういう時代の中で、相手に丁寧に心遣いをし、互いに問いかけ答えて理解し合う。語りかけ聞き受けて共感する。そうして現にいま目の前にいる人と出会って共に生きる道筋を形作っていく。それが、聖霊、神様の霊がわたしたちに語らせる言葉なのでしょう。

# by oji-church | 2017-06-14 13:48 | 牧師からのメッセ-ジ
「ミンナオンナジ?」

★「それは当たらない」。テレビを見ていると、官房長官が、何か問題点や疑問点を指摘されるとそうと言って、それ以上の説明や釈明をまったくせずに、記者からの問いかけや批判を一切受け付けません。「当たらない」と言うのですから、「お前がはずれてる」「お前が間違っている」ということ、「悪いのはお前だ」と質問した側の記者をなじる言葉でもあります。問いかける言葉と答える言葉とがまったく出会うことも触れ合うこともないまま、空中分解して泡のように消えてしまうのです。問いかけ答えて理解しあう。語りかけ聞き受けて共感する。そういう言葉本来の働きは、どこかへ消え去ってしまったかのようです。その代わりでしょうか。ネット上には、立場や意見の異なる人に対する苛立ちや憎しみをぶちまけ、煽り立てる言葉が溢れています。
★「ミンナオンナジ」と思える人間同士の間では麗しい言葉が交わされますが、自分と立場や意見が異なる人には、言葉は、理解し合い、共感し合うという言葉本来の役目に用いられなくなってしまっているようです。「ミンナオンナジ」と思えるのは心地いいことですが、立場も境遇も意見もやることも、すべて同じ人間というのはどこにもいません。「ミンナオンナジ」は幻想に過ぎません。この幻想にしがみつこうとするとき人は、自分とは違う立場や意見の人に対して、居心地の良さを壊す者として、苛立ちや憎しみを持つようになり、やがてそれをぶちまけ、煽り立てる事になってしまうのでしょう。人間というのは元々バラバラの違う存在。でも、同時に人間というのは一人では生きられない存在でもあります。だから、お互いに違いを乗り越えて、理解し合い、共感し合って共に生きる社会を形作るために、言葉というものを編み出してきました。それはなかなか簡単ではない、忍耐も必要なことでしょう。しかし、言葉があるからこそわたしたち人間はその、簡単ではない、忍耐力の要ることも、成し遂げてくることができたのです。そういう言葉というものが持っている本来の意味・役割に、わたしたちはいまもう一度心を向けていく必要があるのではないでしょうか。
# by oji-church | 2017-06-07 09:26 | 牧師からのメッセ-ジ
「すでに手遅れだった」

★先週、衆議院で「共謀罪」法案が可決されました。実際に犯罪が行われるよりも前に、その「準備」をなしたと見なされる者を逮捕・起訴できる法律です。どのような振る舞いが犯罪の「準備」と見なされるかについて、国会では曖昧かつ「いい加減!」な答弁しかなされないまま法案は可決されました。この法律が成立すれば、官憲から目をつけられた人は、恣意的に「犯罪の準備をした」と見なされ、逮捕・起訴され、犯罪者とされる可能性が生じます。これは、戦前に「希代の悪法」と呼ばれた「治安維持法」と同じ働きです。戦前・戦時下、治安維持法によって、官憲から目を付けられた無実の人が多く逮捕・投獄されました。戦時下ホーリネス系教会が弾圧され、牧師が逮捕・投獄され、教会が解散を余儀なくさせられたのも、治安維持法によるものでした。それは人々の間に国には逆らわないほうがいいという萎縮を生み出します。
★「特定秘密保護法」「安保法制」「共謀罪」。いずれも国の力を強め、国を国民・市民から遠ざける法律です。この状況は「戦前に近づいている」というよりも、もはや「戦前である」と言った方が近いでしょう。首相は憲法9条の改憲を呼びかけていますが、そうなれば確実にそれは、「戦時下」になることでしょう。
★ナチス・ドイツと闘ったドイツの牧師マルティン・ニーメラーの言葉が、いまわたしたちに大事なことを呼びかけているように思います。「ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になった。けれども結局自分は共産主義者でなかったので何もしなかった。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども自分は依然として社会主義者ではなかったので、やはり何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかった。さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であった。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった」。
# by oji-church | 2017-05-31 17:28 | 牧師からのメッセ-ジ