聖霊降臨節第1主日
ペンテコステ礼拝
5月27日(日)午前10時30分
説教「風と火の中をくぐって」
(使徒言行録2章1~13節)
大久保正禎牧師
【讃美歌】29.196.390.529.65-1.92-1.
【招詞】ヨエル書3章1節
【交読詩編】116編1~7節
「相手中心の『熱心さ』」(1)〈あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心にしたわれるのは、よいことです。〉(ガラテヤの信徒への手紙4章17~18節)★今、教会に集まる人が減っている中で、「伝道に熱くなる教会」ということが叫ばれています。しかしその「熱心さ」がただ自分の勢力を拡げたいという、自分を真ん中に置いた意図でなされる「熱心」であるならば、それは「善意からの熱心」とは言えないでしょう。次にパウロはこう語っています。「わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも善意から熱心に慕われるのは、よいことです」。ここは訳し方が悪いと言いたいです。こう訳すと、あたかもパウロが、自分があなたがたのもとにいるときだけにかぎらず、あなたがたはわたしのことを善意から熱心に慕うべきだ、それこそが「よいこと」なんだと要求しているように読めてしましいます。そうではなくてここのところを元のギリシア語にそって訳すとこうなります。「よいことにあって熱心に求められることは、よいことだ」。何を言っているのかよく分からない言い回しですが、原文通りに訳すとこうなります。
★恐らくパウロが言っているのは、自分が慕われることよりも、ガラテヤの教会の人たちがよいことのために熱心に呼び求められることは、よいことだと言っているのだと思います。つまり「熱心」というのは、「俺の方を向け」という自分中心でなされるべきものではなく、「あなたが大事なんだ」「あなたが必要なんだ」という「あなた」を中心にして、相手を中心に置いてなされるべきものなのだということをパウロは語りたいのではないかと思うのです。(つづく)
「もう子どもじゃない」(2)〈同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。〉(ガラテヤの信徒への手紙4章3~4節)★パウロはここまで、ユダヤ教の律法の掟が、子どもの後見人・管理人だと語ってきました。でもガラテヤの教会の信徒の人たちは、もともとユダヤ人ではありません。ユダヤ教の律法の代わりにローマ帝国にはありとあらゆる神様を崇める宗教がありました。それぞれに聖なる日にちが定められていたり、なすべき儀礼が定められていて、それを守って生活することが求められていました。そういう有様をパウロは「世を支配する諸霊に奴隷として仕える」と語り、10節では「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています」と言っています。
★日本社会もこれとあまり変わりません。いわゆる神道や仏教といった宗教そのものだけでなく、日本人が気にするのは、干支、星座、血液型、方角、大安や仏滅といった暦、名前の字画等々、数え上げればきりがありません。これらがキリスト教に基づいていないからいけないというのではありません。でも、こうしたことが次から次へと節操なく取り込まれることの背景には、自分で考え、自分で判断することに未熟な日本の社会の幼稚さ、子どもっぽさがあるとは言えないでしょうか。
★律法の掟や諸宗教の儀礼という、人を監視する力から解放されて、わたしたちはもう子どもではない。一人前の人間として、ユダヤ教の律法の掟という檻からも、諸宗教の儀礼という檻からも出て、のびのびと野山を歩き、谷の百合を見つめ、空の鳥を眺めたように、わたしたちもそうした檻から外に出て自由に遊ぶのでいいのだ、というのがパウロの呼びかけなのです。
「もう子どもじゃない」(1)
〈同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。〉(ガラテヤの信徒への手紙4章3~4節)★パウロは、神様の約束を人間社会の相続を例に挙げて説明しようとしていますが、そこでパウロが言おうとしているのは、人間の相続の場合、子どもの内は相続は約束されていても、実際に親の財産を相続することは許されず、後見人や管理人の監視下に置かれるということです。
★子どもというのは何をしでかすか分かりませんから、親の財産を受け継いだりしたらあっという間に無駄遣いしてしまいかねない。だから親の財産を相続することは約束されていても、すぐにそれを受け継ぐことは許されず、後見人や管理人に見張られているというのです。で、この後見役、管理役が律法の掟であったというのです。律法の掟であれをしなさい、これをしなさい、あれをしちゃいけない、これをしちゃいけないと指図されてきた。子どもだったから。でもわたしたちは今や、イエス・キリストと出会ったのだ。イエス・キリストが十字架に掛けられたままの姿でわたしたちの前に現れて、こんなにも汚れ、捨てられ、惨めな姿となったとしても、神様はわたしたちを決して見捨てはしないということを教えてくれた。そのことをイエス様から教えられたわたしたちは、もはや子どもじゃない。何が本当に大切なことで、何が本当に必要なことで、何が本当に守らなければならないことで、何が本当に正しいことなのか、律法の掟によって「ああしなさい」「こうしなさい」「あれをしちゃダメ」「これをしちゃダメ」と指図されなくても、自分で祈り、自分で神様と対話し、自分で考え、自分で判断して、神様と共に歩む「おとな」になったのだ、ということです。(つづく)
「顔の見える教会」〈わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である〉(ヨハネによる福音書15章12節)★2月22日の2012年度王子教会定期総会で新年度の教会の主題を「顔の見える教会」としました。このところの教会の状況は、だんだんといわゆる「高齢化」が顕著となり、それに伴って礼拝に出席できる人の数も限られてきています。しかし教会の課題はそうした「数」の部分にあるのではないと思っています。
★教会の課題とはつまるところ、いつの時代にもどんな状況にあってもただ一つ、「福音を宣べ伝える」ということにあるのだと思います。「福音」とは、「喜ばしい知らせ」という意味です。それを「宣べ伝える」ということは、自分以外の誰かの存在を前提としています。わたしたちは自分以外の誰かから「喜ばしい知らせ」を受け取り、それをまた、自分以外の誰かに「喜ばしい知らせ」として伝えるのです。
★自分一人分の「喜ばしい知らせ」は沢山あります。しかし自分以外の誰かと分かち合うことのできる「喜ばしい知らせ」は、誰かと顔と顔とを合わせて出会い、その労苦を分かち合うことによってしか得られるものではありません。
★都会では、人と人との触れ合いにまつわるいろいろな「煩わしさ」を避けようとして、人々はお互いの間に「無関心」「没交渉」という「空白地帯」を設け、人の苦しみは「自己責任」として捨て置かれます。しかしそのような都会のあり方が、地方に犠牲を強いて省みない、罪深いものであることが、今回の大震災では明らかになったと思います。わたしたちは、不特定多数の中に隠れた誰でもよい一人ではなく、神様から愛を受けて「あなた」と呼びかけられた、かけがえのない「わたし」となって、出会う一人また一人の存在を大切に受けとめて「あなた」と呼びかけ、その苦しみや悲しみを共に感じ受ける一人の人間へと立ち帰ってゆく必要があります。
「日々順調に問題だらけ」★ある人がこんなことを言っていたのがとても印象に残っています。「教会は、問題が何もない天国ではなくて、問題が持ち込まれる場所だ」と。まったくその通りだと思いました。そして十数年牧師をやってくる中で、わたしが実感しているのは、教会はその持ち込まれた問題をスッキリ解決してくれる便利な場所でもない、ということです。
★牧師に成り立ての頃、問題を解決してあげるのが牧師の仕事だと思い、様々な人の問題に関わっていきました。しかし多くは失敗に終わりました。人の問題に関わることが間違いと言うのではありません。そこに、人の問題を解決してあげて感謝されたい、とか、問題をすっかり解決してスッキリしたい、といった心持ちがないかどうか。それこそが問題なのです。
★イエス様の生き様を思い描いてみます。確かにイエス様は多くの人の病いをいやしました。しかしその結果、イエス様の周りには人間的な軋轢や摩擦がすっかり解決されて無くなったかといえばその逆です。イエス様の歩みはむしろ、敵が増えていく中を進む歩みでした。弟子たちもまた最後には、イエス様のもとを去っていってしまいました。十字架の上でイエス様は自分をあざ笑う者に取り囲まれ、まったく孤独でした。結局イエス様は、最終的には人間同士の摩擦や軋轢をすっかり解決はできないまま、むしろその矛盾を一身に背負って傷つき果て、世を去っていったのです。
★振り返ってみれば、わたしたちの人生の歩みは本当は、日々問題だらけです。でもその問題を誰かに押しつけて、「平和」を味わうこともできます。いまわたしたちが経験している原発事故とその影響を考えれば、そのことはよく分かると思います。わたしたちは放射能という厄介なものを原子炉に閉じ込め、それを地方の人の少ない場所に押し込めてきました。東京ではそこで作られた電気を使って幸せを享受し、その幸せを誇るかのように煌々と夜が照らし出されています。しかし今となって見れば、放射能は噴出する機会を今か今かと待ち受けていたかのようです。
★信仰の道を歩むとは本来、問題から解放されることではなく、わたしたちが本当は抱えている様々な問題と正直に向き合い、それらの問題がすっきり解決されなくても、様々な問題の中を生き通し、歩み通されたイエス様だけを頼みの綱として生きることなのでしょう。「日々順調に問題だらけ」の歩みは、イエス様が共におられるという福音でもあるのです。
「もう一度、たちあがる」★聖書で「復活」と訳されているのは「アナスタシス」という言葉です。「アナ」は「もう一度」、「スタシス」は「立つ」という意味です。ですから聖書の「復活」という言葉には、「もう一度、立ち上がる」という意味が込められているのです。
★聖書ではイエス様の復活は死人の「蘇生」としては語られていません。語られているのは圧倒的に、もう一度立ち上がったイエスとの「出会い」としての「復活」です。もう一度立ち上がったイエスとの出会いを通じて、弟子たちもまた、もう一度立ち上がっていくのです。こうして出会いを通じての「立ち上がり」が人から人へと伝わる様子を聖書は語ります。
★人生の中では様々な挫折や失敗や失望を経験します。その中でやがて〈あきらめ〉が人生の基調となっていくことがあります。自分一人の〈あきらめ〉ならまだいいのですが、〈あきらめ〉もまた伝染するように思います。〈あきらめ〉が〈あきらめ〉を呼び、人と人との間に冷たい空白が支配しているのが今のわたしたちの周辺の空気ではないでしょうか。
★そうした〈あきらめ〉の空気を打ち破って、イエスはわたしたちと出会うために、もう一度、立ち上がるのです。
「いわきを訪ねて」★26日から27日にかけて福島県のいわき市を訪ねてきました。いわき市は現在、原発事故による放射能被害から避難してきた人たちで3万人ほど人口が増えていると言います。これまで誰も経験したことの無かった、いつまで続くのか分からない避難生活とその受け入れという事態によって、人間関係にかかわる様々な問題が生じていることを知らされました。
★子どもの健康を思ってお母さんと子どもたちは県外に避難しても、お父さんは仕事があるために残らなければならず、家族の分断が起こっています。また将来子どもへの差別を心配して福島を離れる人もいるとのことです。他の市町村から避難し、仮設や借り上げ住宅に住む人には支援が届きますが、もともといわき市に住んでいる人への支援が見えてこない。そのことでいわき市民といわき市外から来た人との間に軋轢が生じているとのこと。もともと産業が低迷し、雇用が厳しい中での事態に先行きへの不安が拡がっているようです。どのように支援ができるか、大きな宿題をいただいてきました。
「闇に抗して」★三月八日付の毎日新聞に東日本大震災の被災地となっている市町村の首長のアンケート記事が載っていました。中でも印象に残ったのは、福島第一原発に隣接する双葉町町長の言葉でした。「憲法二五条(生存権)が守られていない。末端行政が最大の犠牲者である。国は広い権限と金を直接渡してほしい」。
★日本国憲法第二五条には「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と書かれています。この条文の根本には、人間は誰もがそのいのちを愛され守られて生きるべき存在であるという、いのちに注ぐまなざしが置かれています。
★このことがあえて憲法に記されて確認されているということは、人間の社会には、このことに反対する力が働く時があるということを表しています。人のいのちを愛さず、守ろうとしない力。それは戦争・差別・抑圧等、いろいろと挙げることができるでしょう。それはわたしたち自身の内側、心の中にある闇の力とも言えます。でもわたしたちはその闇の力に抗する社会を作っていくのだという決意がこの憲法の条文には刻まれているのだと思います。
「心の内部被曝」(2)★わたし自身、釜石で瓦礫を運んでその集積場に行ったことがありました。途方もない量の瓦礫です。案内してくださった市の担当者は約12年分の廃棄物が一気に出た計算だと言っていました。他の自治体に協力してもらわなければ、とても釜石市だけではまかなえないとも。集積場から帰る車の中でその方は、自分は阪神淡路大震災の時に何もしなかったのに、大勢の人たちが釜石にこうして助けに来てくれて言葉がないとおっしゃていました。そのときには、瓦礫の広域処理にまさか反対の声が湧き起こるとは思ってもいなかったでしょう。
★汚染されているかもしれない瓦礫は被災地で何とかしてくれ。自分の近くには持ってこないでほしいというのは、沖縄に米軍基地があるのは仕方がない。でも自分の近くには持ってこないでほしいというのと似ている気もします。米軍基地ならば、皆が「やはり軍隊など要らない」と決断することで無くすることができますが、放射能は一度環境に出てしまえば無くすることはもはやどうひっくり返ってもできません。その一方で、小さな子どもたちを少しでも放射能から守りたいという気持ちも大切にしていかなければなりません。そのためにはなるべく放射能のある場所を広げないことも大事です。そう考えるとどうしたらいいのだろうかと考え込んでしまうのです。
★あの震災から一年。最初は、突然理不尽な苦難に直面した隣人を思って助け合う関わり合いが生まれましたが、時が経つ中で、同じくいのちを大切に思う気持ちを抱えながら、意見の食い違い・すれ違い、それによる対立や摩擦がいろいろな場で浮き彫りになってきています。その多くは原発事故さえなかったら生じなかったものです。そういう意味で私たち自身が、知らず知らずの内にやはりあの原発の事故の影響に、心を蝕まれているのではないか。「心の内部被曝」という言葉にピンときたのです。わたしたちは誰もが実は、知らず知らずのうちに「心」を被曝しているのではないか。
★心の被曝に気づかないで人間同士が対立を深めていけば、わたしたちは自分自身を蝕んで、いっそう人間の自滅を早めることになるでしょう。そうならないために、わたしたちはお互いの言葉によく耳を傾け、とりわけ被災された人たちとよく出会い、そのいのちと生活によく触れて、それを自分自身のこととして大切にしてゆくのでなければなりません。
「3月11日によせて」★「あの日」から1年が経ちました。大地の揺れを受けて心も揺れに揺れた1年だったように思います。その揺れはいまも続いています。
★被災地と東京の間を繰り返し行き来する中で、その環境の落差に気持ちが落ち込み行き惑う日々も経験しました。被災地では外部の情報はほとんど入ってこず、目の前の人の言葉にひたすら耳を傾け、目の前の事柄にひたすら取り組み、夜が来れば眠る生活を送りました。
★いままた東京で「情報の洪水」にさらされながら、そのうちのあるものを捨て、あるものは拾い、パソコンを相手に文章を書いたり、書類をまとめる日々を送っています。しかしこれが〈ほんとう〉の〈生活〉なのか、考え込みます。
★ある方の文章からマザーテレサのこんな言葉を教えられました。「私は一般大衆を(自分の果たすべき)責任の対象と見なしたことは一度もありません。私は個人を相手にします。私は同時に一人しか愛せません。同時に一人にしか食べさせることはできないのです。対象はつねにひとりなのです」。
★被災地では微力な「ひとり」として、「出会わされたひとりと向き合う」「与えられたひとつのことに全力で取り組む」ことを教えられました。「情報の洪水」の中、「ひとり」と出会う「ひとり」であることを忘れないようにしたいと思います。
「心の内部被曝」(1)★「心の内部被曝」。これは林尚志さんというカトリックの神父さんが近頃出された『石が叫ぶ福音~喪失と汚染の大地から』という本の中に出てきた言葉です。林神父がこの言葉でもって語られていることと、わたしがこれからお話ししようとすることとは少しずれるのですが、しかし、あの東日本大震災から間もなく一年が経とうとする今、わたしが何となく感じていることを「心の内部被曝」というその言葉は、うまく言い表してくれているように思いました。
★被災地の瓦礫の処分を各地の自治体で分担するということがニュースなどで話題になっているのを見られた方もおられるでしょう。東京でも瓦礫を引き受けることになり、恐らく北区の処分場にも持ち込まれることと思います。しかしその瓦礫に放射能が含まれているのではないかと不安を抱く人たちがあり、ある自治体では瓦礫を受け入れることに反対する市民がデモを行っている様子、担当大臣がその人たちに説明をしている様子なども映されていました。わたしが関わっている市民の平和グループの人からも電話が掛かってきて、瓦礫の分担には反対していきたいということをおっしゃっていました。それで何だかとても複雑な気分に陥ってしまったのです。(つづく)
「『キリストの体』として生きる」(2)★福音書には、イエス様が五千人以上の人たちとわずかなパンと魚を分かち合ったという場面が語られています。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教えられ始めた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエス・キリストのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。』これに対してイエスは、『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』とお答えになった」。
★イエス様は弟子たちばかりでなく、イエス様の後をつけて駆けつけた大勢の群衆に対しても、その「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」みました。この「深く憐れむ」というところには、ギリシア語でもともと「はらわた」という意味の言葉が使われています。恐らくこの人たちは空腹で、また身なりもみすぼらしく、何ら希望を持てないような姿をしていたのでしょう。その姿を見てイエス様は「はらわたの千切れる思い」、断腸の思いがしたというのです。そして弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と呼びかけるのです。弟子たちは「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言って、これらの人たちとの出会い・つながりなど、自分たちには及びもつかないと考えました。そこにあったのはわずかに五つのパンと二匹の魚だけででした。とても五千人以上の人たちの空腹を満たすことにはなりません。でもイエス様はそれらのパンと魚を集めて、それを手に取って「天を仰いで賛美の祈りを唱えて」それを裂いて皆に配ります。するとすべての人が満腹したと言います。
★恐らく「罪人を招き」「仕えるために」生きるというのは、こういう振る舞いを指しているのでしょう。弟子の集まりという枠を超えて、自分たちにとってとても及びもつかないと思える新しい出会いへと自分自身を開いていくことです。弟子たちはそれまで五千人もの人たちと一緒に食事などしたことは無かったでしょう。初めての出会い、まだ見ぬ出会いです。でもそのまだ見ぬ出会いへと自分自身を開いていくことが、「罪人を招く」「仕えるために」生きるということなのだと思うのです。
「『キリストの体』として生きる」(1)★教会は「キリストの体」であると聖書には語られています。いまここに、この教会という場に集まって隣り合って座っているわたしたちの集まり、つながりが一つのイエス様の体となって、この世に今もイエス様が生きておられることの目に見える形なのだということです。
★そこで、イエス様という人がどのように生き、どのように働かれたかを考えてみなければなりません。福音書にはこんなイエス様の言葉が語られています。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。またこんな言葉も。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。
★わたしたちがいまここに、この教会という場所に共に集まっており、それが「キリストの体」であるということは、わたしたちが一緒になって、このように、このイエス様のように「罪人を招き」「仕えられるためではなく仕えるために」生きるのだということです。
★では「罪人を招く」とはどういうことでしょうか。「仕えるために」生きるとはどういうことでしょうか。(つづく)
「弱い部分の美しさ」★「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(Ⅰコリント12:22)。体の中で弱そうな部分は無いに越したことはないだろうと思ってしまいます。それに対してこう書かれています。「体の中で価値がないように見える部分に、わたしたちはより多くの価値を置く。わたしたちの中の見苦しい部分は、(実は)より多くの美しさを持っているのだ」(Ⅰコリント12:23私訳)。そうパウロは言っているのです。世間一般の人たちが「恰好が悪い」「価値がない」と見なすような部分に対して、わたしたちはそうではない。わたしたちはそこの部分をこそ大切にするのだ、という「決意」「決心」をパウロはここで語っているのです。そう決心して、その「恰好が悪い」「価値がない」と世間一般で思われている部分に自分自身を結び合わせていく時、実はその「恰好の悪い」「価値がない」と思われている部分こそが、本当は美しいものなのだということが分かってくる、ということです。
「真の文明は」★先日、東日本大震災で津波の被害を受けられた被災者の方から、初めてこういう言葉を聞きました。「がんばれ」「がんばろう」という言葉が、被災した者にとっては厳しい言葉として響くと。被災者はもう十分頑張っているのだ、と。被災された方からそういう言葉を聞いたのは、わたしにとってはそれがほとんど最初でした。震災から10ヶ月が経ってようやくそういうことが口にできるようになったのかもしれませんし、また、少人数の場所だったから言えたのかも知れません。
★辞書で「絆」という文字を引くとこう書かれています。「馬の足にからめてしばるひも。また、人を束縛する義理・人情などのたとえ。しばって自由に行動できなくすること」。もしかしたら「絆」という言葉の裏には、復興に向けて「がんばっている理想的な被災者」像に被災された方々を縛り付けようとする無言の圧力が働いているかもしれません。「強いニッポンよ、もう一度」というようなかけ声が充満し、その足手まといとなるような者は切り捨てることを「復興」と言うのであれば、「絆」も「復興」も、害こそあれ、何の益もありません。
★先日、田中正造のことを取り上げたテレビ番組を見ました。足尾銅山鉱毒事件で鉱毒の被害を受け、政府の政策によって鉱毒を溜める遊水池の底に沈められようとする谷中村に移り住み、政府に対して抗議の声を挙げ続け、全財産を投げ打って被害者のために尽くしたのが田中正造です。その田中正造がこう語っています。「真の文明は、山をあらさず、川をあらさず、村を破らず、人を殺さず」。田中正造が谷中村で被害の調査の最中に倒れ亡くなった時手元に残っていたのは、小さな信玄袋の中に日記帳、大日本帝国憲法の冊子、石ころ数個と鼻紙、そしてマタイ福音書の小冊子。それだけだったそうです。そういう田中正造の歩みの中には、「強さ」を目指すのとは違う、わたしたちの本当にあり得べき姿が示されているように思っています。
「全能を断念する神」★一昨年秋から、木曜日の祈祷会でヨブ記を読み進めてきました。その間に東日本大震災を経験し、先週ようやくヨブ記をほぼ読み通しました。
★ヨブ記に響いているのは「無垢な人が、なぜこのような苦しみを経験しなければならないのか」という問いかけです。その問いかけに答えて最後の現れる神様の答えは、天地万物の創造を語り、「お前にこれができるか」とヨブに問い返すもので、今風に言えば「逆ギレ」とも読める、にわかには納得のいかない答えです。
★しかしその奥底に響いているのは、他ならぬ神様の苦悩ではないかと思うようになりました。すべての生きとし生けるもの、この世界の森羅万象が自らの存在を生き生きと喜んで自由に生きることを大切にするこの世界にあって、悪や不都合を根絶やしにすることは簡単なことではないのだという神様の苦悩です。
★そこにいるのは全能の神ではありません。全ての生きとし生けるものが己の存在を喜んで生き生きと生きられるために、自分自身の全能の力を断念する神様。自分以外の者の自由と喜びのために、自分以外の者への愛のために、自らの力を断念し、自らを折りたたむ神様、です。本当の意味でわたしたちが自分以外の誰かと共に生きようとする時、そこには自分の持てる力や自分の都合、自分の自由の断念が含まれていなければなりません。自分自身をどこかで幾分かは断念することなしに、本当の意味で他者と共に生きたことにはならないのです。
★ヨブ記を丹念に読む中で、あの大震災・津波・原発事故という災厄を超えて、「なぜですか」と問うわたしたちへの神様の答えが無言の内に響いていることを知りました。わたしたちが神様から問いかけられいている、「あなたは、他者と共に生きるために、どのように自分自身を断念しているか」という問いをしっかり自分自身に問いかけながら歩んでゆきたいと思います。
「生の根っこの悲しみに」★ 先週の月曜日に北支区の信徒大会があり、岩手で津波の被害を受け仮設住宅で暮らしておられる方、また、福島第一原発から二四キロという場所で本当に苦悩しながら保育園の園長先生をされている方のお話を伺いました。会が終わった後、一緒にお食事をした時のことが深く印象に刻まれています。参加者がそれぞれ自己紹介と挨拶をした後、保育園の先生は声を詰まらせて何も話せなくなられました。何かを話そうとすると涙が出てきてしまうと言われます。それを受けて岩手の方のお連れ合いがこういうことを言われました。震災の後、支援のために訪れた人にこう言われたと言うのです。顔ではなるべくニコニコ笑いってはいるけれども、(アゴの下に手を当てて)ここまでは涙です、と。
★聖書が語る神様の約束は、既存のルールに従って、見た目を清く正しく立派に整えることのできた人たちだけを救ってあげるという約束ではありません。それは結局人間が作り出したルールに過ぎないものです。神様の約束は見た目を清く正しく美しく整えた人に向けてだけではなく、生きるわたしたちみんなのいのちの根っこに向けられた約束です。すべての人が抱えている生きることにまつわる悲しみに向かって、神様の側が「自分はこの悲しみを共にして、必ずこの悲しみに向かって祝福を注ぎ、守り、愛さねばならない」と約束されたのだということです。
★わたしたちにとって生きるということは、何と難しいことかと思う時があります。生きていれば楽しいことや嬉しいこともあるのは事実ですが、それ以上に悩ましいこと、苦しいこと、悲しいこと、辛いこと、思い通りにならないことに、幾つもわたしたちは出会わなければなりません。でもそんなわたしたちの生きることの根っこには「自分はこの悲しみを共にして、必ずこの悲しみに向かって祝福を注ぎ、守り、愛さねばならない」という神様の約束が響き続けているのです。だからこそ、わたしたちはこの神様の約束と呼び交わしながら、隣り人の悲しみを共に分かち合わなければならないよと呼びかけているのでしょう。
「人間の『考え』の限界」★昨年末に出された福島第一原発の事故調査委員会の中間報告書は最後のところで「想定外」ということに触れています。その中で次の一文に目を惹かれました。「人間は物事を考えるとき、考える範囲を決めないときちんとものを考えることができない」。
★人間は「考える」ということ一つを取ってみても万能ではないということでしょうか。人間が何かを「考える」ということは必ずもう一方に「考えない」部分を生み出してしまうということです。「考える」という人間の振る舞いにはどうしても「考えの及ばない部分」がつきまとってしまうのです。現代を生きているわたしたちはほとんどそのことを忘れているのかもしれません。人間の「考える」力には限界がないと思っている。
★確かに人間はあれこれと物事を考えることのできるすばらしい能力を持っているのだけれども、人がものを考えているその傍らには常に考えていない部分が残っているということを覚えておかなければなりません。
「あなたを愛そうと思う」★昨年は、東日本大震災を経験し、年賀状に「おめでとう」という言葉を使うことを控える風潮があることが報道されていました。さっそく辞書を出してきて「おめでとう」という言葉の意味を調べてみたところ、もともとは「愛(め)でる」という言葉と「甚(いた)し」という言葉がつながって「めでたし」という言葉になったということです。辞典の最初の意味には「好み愛したい感じがする」と書かれていました。
★この意味でいくと「おめでとう」という言葉には、「自分は愛したいと思う」という決意表明の意味が込められていることになります。「おめでとう」という一つの言葉の意味を調べているうちに、そこに隠された「わたしはあなたを愛そうと思う」という意味に、何か心惹かれるものを感じるようになりました。
★天使ガブリエルは結婚前のマリアさんの前に現れて「おめでとう、マリア」と告げます。天使の告げる内容はマリアさんが結婚前に身ごもるという出来事であり、当時にあってはすぐさま「おめでとう」などと言祝げる内容ではありません。しかしガブリエルの「おめでとう」の一言には、神様の「わたしはあなたを愛そうと思う」という決意が込められていると読んだらどうでしょう。
★物事が少しでも自分の思い通りになることを人々が願い、そうなれば喜び言祝ぐ傍らで、神様は自分の思い通りになろうとすることを断念し、貧しく弱く小さくされたマリアさんに歩み寄り「わたしはあなたを愛そうと思う」と決意をされた。事実、神様の思い通りにはならず、生まれたイエスはやがて人々から憎まれ、十字架に掛けられることになりました。それでも神様はマリアさんに対する「わたしはあなたを愛そうと思う」という決意を忘れず、その言葉通りにこの世を愛され続けた。それがクリスマスに始まる、神様の働きの物語です。